ゴジラをローマ字で書くと「GOJIRA」である。日本で作られたゴジラは、海外でそう表記されたに違いない。一方、この映画のタイトルは「GODZILLA」である。GODは神を指し、ZILLAとは、怪獣類を形容する意味がある。つまり「怪獣の姿をした神」と例えられる。そう解釈をすると、ハリウッド制作だが、極めて日本的な宗教観に基づく映画であると宣伝している様に見える。ま、興業収入が少なかった時の一種の責任逃れかもしれない。ところが、「北風と太陽」ではないが、米国は徹底して腕力で敵を壊滅させようとする。一方、日本には、いたるところに神様がいて、我々が悪い行動をすると時々怒りを顕わにする。しかし、それを素直に受け入れて、神様の怒りが収まる様に努力する精神性がある。その違いは、終始貫かれている。
さて、本題に入ると、冒頭のタイトル部分は、大昔の実写映像と共にノンフィクション風に作られていて、わくわく、どきどき、期待させられる。しかし、興奮もそこまでだった。あと、水爆実験の大嘘は米国らしい手口だが、それは駄目だ!。スリーマイル島のような建物での原発の事故は、やはり、関連した東北の震災を思い起こさせ、恐ろしさが心にじわっと広がる。GODZILLAも怪獣ムートー(=*1)も、姿を見せるまでは、そこそこ緊張感のある映像を保っているが、彼らが登場すると、いきなり「怪獣パニック映画」になってしまい、放射能を吸い上げて再放出するとか、電磁パルス・エネルギーを根こそぎ吸い取るとか、色々大昔の空想が今だに、そのまま生かされている。そこに、普遍性が貫かれている。しかし、そういった既成の概念の上に成り立つストーリーなので、それなりに苦しい場面も多い。それらは、言い出せばキリがないが、空母、戦闘機、核ミサイル(北朝鮮のかと思った程だ)なども含めて、全体的にオールドファッションで構成されているところに現れている。おまけに、警察機動隊が戦時中の憲兵のように表現されていたり、礼儀知らずの子供が多い(敗戦国日本)かのような表現には、残念としか言いようがない。また、日本を代表する生物学者の芹沢教授は、これもまた感性だけで理屈のない男として、終始「驚いた不安顔」の一点張りで情けない。
全体的に主題の流れが散漫で、「米国人家族の絆を重視した映画」なのかと誤解を与える「くささ」が匂う。やっぱり予想通りだった。また、「怪獣パニック映画」として観ると、怪獣ムートーもCGなのに着ぐるみ感が、あえて露骨に強調されすぎて、一寸いただけない。物語の終盤は、意外とシンプルで説明もなく、まるでマカロニウエスタンの「夕陽のガンマン」のように、静かに海に向かって消えていくという、「ありえへん」ストーリーになっている。日本のゴジラは、当時それでも水爆実験に対する風刺的な要素が多分にあった(第五福竜丸事件)が、そのような精神はみじんも感じられない。むしろ、ゴジラをネタに一儲けを企む米国人としては、狙いが興行成績のみに執着した作り(破壊パニックの度合いと米国人親子の絆が強調され過ぎ)にもかかわらず、古きゴジラファンまでも取り込みたいとした側面が臭う作りになってしまい、ファンからすれば残念な想いをさせられる。そして、それを示唆するかように、あの子供のようにはしゃぎまくっていた「じいちゃん」連中は、エンディングでは早々と静かに闇に立ち上がり、肩を落として消えていった。うーむ、わかる。
http://www.godzilla-movie.jp/
補足*1:怪獣ムートー(Massive Unidentified Terrestrial Organism:未確認巨大陸生物=ゴキブリの頭をつけた人型怪獣)。下半身はまるで人間。