歳を重ねた人たちは、自分の経験から「決め付けたものの言い方」をする事が多い。それは、一種の信念にも似て、簡潔な言葉でまとめられている。しかも、意識の中には、自らの経験からでしか発言できないとした、前提までも加味されてるかのようだ。その言葉を、年寄りじみていると切り捨ててしまえばそれまでだが、その対象が秘めてきた履歴を知るための、「一種の手がかり」として扱うことで、「長い年月の変化」を捕らえることができる。そういう話に耳を傾けながら、その重みに気づき、自分にも同じような経験から来る拘りに信念を持つことは多い。しかし、一方で、そのような頑固になる年齢に近づいたのではないかと不安になることがある。
最近、ある小冊子でアラスカの魚師が、鱈とか鮭を採る様子が紹介されていた。荒波の海と、雪をいただいた山々を背後にした美しい風景の中、氷点水温の凍えるような海へ繰り出して行く姿が、勇敢にも頼もしく見える。さすがに、豊かな漁場が広がって、天然物がたくさん採れそうに見えるのである。しかし、アラスカは州として厳しく漁獲制限を行っている。しかも、古くから天然資源の生育環境が持続可能に保つよう努力を重ねてきた。さらに、1990年には養殖漁業を禁止して、山、森、河川、海など広い視野から、生態系に人の手が一切入らないように、天然資源を守ることに拘ってきたという。その環境から生まれた海の天然資源を、現在「100%天然の海の幸」と位置づけている。
そんなアラスカ州の崇高なる理念と確立された安全性の仕組みに共感を呼び、憧れともいえる期待感となって、極寒の地で採れる、その100%天然の海の幸を口にしてみたいと思うようになっていた。瀬戸内で育った者として、鱈や鮭というと、ちょっと大振りな魚として、大味という印象が付きまとい、頭から塩漬けの鮭という印象が強いが、たまにはサーモンステーキもいいと思うこともある。しかし、常に馴染めず、しかも許せないのがすし屋のサーモンである。これだけは決して口にすることはない。もちろん、いずれの場合も、それなりに魚臭さの少ない種類が使われ、日本人好みになっていて、私の認識以上に世間では親しまれてきた。特に最近、店頭などで扱われている紅鮭は、紅色が薄く、匂いも淡白な種類ばかりのようだ。「淡水に戻る魚だから」と理屈を返されれば、そうかなとも思うが、紅鮭にしても肉質の色や味に深みが無くなっているように思えるのである。
ところが、この缶詰を口にしてから、紅鮭の印象が格段に良くなった。やっぱりこうでなくっちゃいけねえ!と、昔の紅鮭は、こういう深い赤色で、味も濃かったと「想いを寄せ、深みのある味」に100%天然の海の幸を実感できたのである。たまたまアラスカの紅鮭の種類の違いかもしれないが、一種独特の懐かしささえ感じてしまった。この違いは鮭の種類によるものか、何故そうなのかは判らないが、明らかに旨味の強い紅鮭らしさが残っていて、昔はこのような深みのある味だったと記憶をたどるような気分になってしまった。所詮、缶詰だけど、味に違いがあるのに驚く。結局、味の強い野菜や卵等と合わせるときには、鮭缶はこれを選びたい。
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