2014/06/29

スアレスの厳しい処分

  4年前の2010ワールドカップのブログの中に、こんなことを書いていた。・・・「それにしても、超一流のプレーヤーのフォルラン、スアレスを2トップに配したウルグアイは粘り強かった。もう少しチームとしてのまとまりが良かったらワールドカップの優勝も夢ではなかったかもしれない。フォルランはシビレるくらい格好良いし、サッカーが上手。それでいて多彩な才能の持ち主でもあった。そして、あのゴール内でのハンドに及んだスアレスは、確かな状況判断と卓越した技術、そして機敏な動作モードを備えたポイントゲッターである。この2人は誰でも怖い筈だ。」・・・と。


  スアレスとは、リバプールに所属するFW ルイス・スアレス選手(ウルグアイ)の事。今回のワールドカップでは、まだフォルランのプレーは見れていないが、スアレスは、グループリーグ試合時、病み上がりなのに素晴らしいシュートを2本見せてくれた。ちょっとした簡単そうなゴールだけど「改めて上手い」と思えた。プレミアリーグで33試合に出場し31ゴールという凄い記録を達成しているにもかかわらず、スアレスは、ワールドカップ前のインタビューで「ワールドカップでゴールを決めることは、他の試合とは違って大変難しいことなんだ」と語っている。

  やっぱり、周囲が認めるぐらいの実力者なのだが、リバプールで一緒にプレーするイングランド代表MFスティーブン・ジェラードが、ひざの手術を受けているスアレスへ、ワールドカップの「イングランド戦に間に合わない」ことを望んでいると語っている。もちろん、同じイングランド代表の選手も、彼を脅威に思っているに違いない。一方、フォルランは、ウルグアイ代表チーム全員が「スアレスがワールドカップ前に復帰することを望んでいる」と語っている。全員がスアレスを心の支えにしているようだ。いずれも、大きく報道されたコメントとして、1つの指標として捉えることが出来る。そのくらい、影響力のある選手といえそうだ。


  スアレスの怖さは、これだけではない。本人がインタビューに答えているように「ピッチ上では感情が自分を圧倒してしまう時もある。そして、後になって後悔するような事をしてしまうんだ」と。これは試合中に「噛みつき」行為に及んだり、人種差別的な発言をしたりした事への後悔のようだ。つまり、体のあらゆる部分を使って戦うのである。これを誰が止められようか。そして、今回のワールドカップのイタリア戦でも、DFジョルジョ・キエッリーニに噛みついたらしく(映像で確認できる)、FIFAから厳しい処分を受けてしまっている。今後9試合の出場停止、4ヶ月のサッカー活動停止、10万スイスフランの罰金、ということのようだ。結局、ウルグアイはW杯決勝トーナメントに進出したが、スアレスは今後は試合に出場できず、ウルグアイに帰国することになった。

  それでは、対戦相手のイタリアのFWバロテッリが試合中、相手(ウルグアイ)のDF後頭部に「飛びひざ蹴り」を与えたのはどうか、イエローカードたった1枚の処分でいいのか、レッドカードでも当然だし、もっと厳しい処分があってもおかしくないはずだ。もちろん、ある程度の肉体的な接触は、試合の性質上仕方ないとは言え、いずれも卑劣な行為に違いはないが、忍者のような「後頭部に飛びひざ蹴り」は、当たり所が悪いと被害者は死に至ることもあり、明らかに誰が観ても危険な行為といえる。しかし、一方で噛みついたところで、いくらでも避ける手立てはあるし、被害者が死に至ることはない。厳しい処分も悪くはないが、ただ「野蛮そうに見える行為」というだけでの処分では「不公平感」を拭えない。

  スアレスは、まだまだ自分のプレーが満足する領域に達していないことを深く認識しているに違いない。だから、試合中にもかかわらず「後になって後悔するような事」に及ぶのだ。悔しい時、あるいは自分ではどうにもならない時、幼児性が蘇ってきて「わがまま」になって「かみつく」悪童になってしまうのである。でも一方で、それの見方を変えると、「負けると悔しい」気持ちが人一倍大きいということの顕れだと言える。「かみつく」悪童なんて、決してほめられたものではないが、それほど幼い時から「勝ち負け」に真剣にこだわったサッカーをしてきたのである。

  ワールドカップという、プロスポーツの世界では、「参加することに意義がある」という甘さは微塵もない。「勝ってなんぼ」で結果が全てといえる。今回、日本では、それを隠れ蓑にして、選手やスタッフ、監督も男らしく「負けたが、言い訳はしない」と宣言したり、涙を見せて「みんな察してくれ」と言わんばかりだが、選手のみならず、監督、そして「サッカー協会が定めた目標と、成果の違いをどんどん言い訳」をすべきである。選手仲間の言い訳を聴いて「がっかり」することもあるだろうし、サッカー協会の不毛な考えに大いに落胆することもある筈だ。一方言い訳をする方は、その言い訳の中にこそ、「自らの未熟な部分を発見できるはずだし、単なる精神論に終わる戦略だったり、あるいは他人任せの甘えの精神が残っている」のが見え隠れするに違いない。今だからこそ「自ら言い訳の発言して、自ら本質的な課題に気がつく」必要があると思える。

  かつて、ドイツワールドカップのブラジル戦の試合後、ピッチに仰向けに倒れたままの中田選手は、涙しながらワールドカップの試合を振り返って何を感じていたのであろうか。おそらく、彼は「周囲の幼稚なサッカーに呆れた」のではないだろうか。一生懸命やればやろうとするだけ、自らの力不足を実感するし、目標を言葉にすれば皆同じかもしれないが、選手個人個人の能力や適応力の限界に改めて気づかされたのである。そんな、大きな暗黙の壁にぶつかって落胆してしまったのだ。それは、試合を何度か一緒にしてみて、始めて認識できる、「それでも成長しないチーム」だったからである。今回も、慢性的に疲れていた本田選手の周囲で起こっていたことは、同じだったのではないだろうか。彼のコメントの中には、それが溢れていた。

補足:写真は参考画像として google から抽出・転載  

2014/06/27

POMPEII / ノア 約束の舟

  「 ポンペイなら知っているよ」と、誰もが口にするほど有名な古代都市(世界遺産)だが、そんな詳しい人こそ見逃してはならない映画がこの「POMPEII 」と言えよう。あのバイオハザードで有名なポール・W・S・アンダーソン監督の最新作で、最初から最後まで、一瞬たりとも目が離せない大型娯楽作品になっている。勿論、壮大な自然の営みの再現は、CG映像技術が自然科学を上回ったといえるほど、リアルな映像に圧倒される。製作者の拘りかもしれないが、上空からヘリで撮影したような映像では、CGがこれほど必然性の高い使われ方をしていることに感心させられる。そして、少々余談になるが「24 のジャックバウワー」がローマの特使として登場する。そこで「こいつは死なない!」だろうと思いつつ、最後は「あーあ」と、つい笑いがこみあげてくるが、キャスティング自体にファンとしては少々違和感が拭えない。

  優れた臨場感として、誰もが満足するに違いないにしても、ただ、火山噴火の検証というような視点で観ると、ややオーバーな表現と取れる部分や、津波などに歴史上の事実と噛み合わない部分もあるかも知れない。ストーリーは単純明快の作りで、定番とも言える、ロマンス、友情、戦士、決闘、虐殺、奴隷、賄賂、それに、大自然の地域特殊性として、地震、噴火、大津波、逃げる大衆等が組み立てられ、次から次へと展開するので、誰が生き残れるのか、どうすれば逃げ切れるのか、心臓がバクバク、血圧も上がってくる感じで、所詮、作り物だと思いながらも、さすがに根拠のある作り物のせいか、怖さの中に身を投じてしまい、体が長時間強張って疲れてしまった。音楽はメロディックなもので馴染みやすく、オーケストレーションも素晴らしい。観終わっても虚脱感に襲われ、こんなに体に堪える映画も久々だと感じる。少々オーバーかもしれないが、劇場入場前に食べた物が全く消化されていなかった程だ。


それに対して、難解で分かりにくい映画が「ノア 約束の舟」になる。聖書の文章に不明な部分があり、前後から話のつじつまを合わせようと、何かと理屈を考えて埋めようとする行為は、その解釈をめぐって自由奔放であってよい。むしろ「作者自身の都合で解釈」をしっかり映像で説明すべきである。そこに、監督の感性が脈々と注ぎ込まれ、「選ばれた人間としての愚かさ」を表現して欲しいと思うのである。そこに人の本質を芸術性が包み込むような自由度のある表現が観る者を魅了する。しかし、いくら自由にと期待しながらも、「岩が人型となって動き回るのは如何なものか!」と愕然としてしまう。そこは、もっと明確に時代考証感と抽象映像感を使い分けることで、映画作品としての品位を高められると思うのだが、少々がっかりさせられた。また、私のような宗教心の薄い者には、そこに監督の自己満足の押しつけのように観えてしまう。所詮、お天道様の童話かい?と思う程度なのである。しかし、劇場内では涙する年配のご婦人などもいらして、そこに私の考えの及ばない神聖なる思想が流れていたのかもしれない。


  60歳過ぎのおっさんの感想だからそれなりだけど、この2つの作品は対照的である。既に古代都市の悲劇として広く知られている話だから、改めて楽しめる要素はないと勝手に見逃しそうな「POMPEII 」と、一方で、興味津々で壮大な映像技術で表現する「ノア 約束の舟」の予告編を眺めて、漠然として前知識も少なく、ひょっとしたら「崇高なるノアの解釈と神に対する服従を観ながら」人類創生の意味合いを、自分に対する教訓の1つとして「映像から何らか学び取れるに違いない」と期待する向きも強かった。それだけタイトルに魅かれるため、その期待に対する落胆も大きいという危険性をはらんでいる。しかし、実際の社会はもっと愚かなことが日常行われていて、それには理解を超えたものも少なくない。つまり、どのような向き合い方をするかによって、この作品自体の理解度も異なってくる筈だ。「POMPEII 」は屈託なく楽しめる作品だが、「ノア 約束の舟」は、作品を観終わって「それはいったい何!と」考えさせられる作品であった。

参考1:「ポンペイ」
http://pompeii.gaga.ne.jp/

参考2:「ノア約束の舟」 
http://www.noah-movie.jp/

2014/06/25

お鍋で食べる昆布

  毎日のように使われてきた「出汁昆布」は、昔から意外に高価な物だった。なのに、それは出汁を採ってしまうと捨てられる。勿論、厚みのある上質の昆布は、もったいないので捨てずに、後で佃煮や煮物等に使うこともある。前夜から鍋に水を張り、昆布やいりこ、さらに乾燥帆立等を水に浸けて、それらに含まれている旨味やミネラルを抽出する。これが和食料理の基本となる出汁である。翌朝それに、豆腐、なめこ、などの具を入れて火を通し、味噌を溶き入れて、ねぎ等を散らして味噌汁に仕上げられる。上質昆布として有名なのは北海道の 7~9月に採取された昆布で、乾燥し、長さをそろえて結束し、袋に詰めて出荷される。このような良質の昆布を入手するには、老舗の乾物屋へ行くと良い。

   現在は、このような手間を掛けるのは「田舎のおばあちゃん」ぐらいで、都会のお母さんとしては、出汁に使う素材を分類すると大きく2つに分けられる。比較的古典的な方法とも言える、やや高価な「出汁の抽出パック」か、あるいは、割安で迅速にできる「スティック状の顆粒の出汁の素」があり、使い分けられている。前者の「出汁の抽出パック」は、昆布や椎茸の細かく裁断した物、さらに、焼きあご、鰹節、鯖節等の乾燥チップに醤油粉末等を入れて味を調整したものが袋に詰めてある。いわゆる自然の乾燥素材なので、各素材の馴染みが良く、沸騰した鍋に投入して2~3分で美味しい出汁が出来上がる。一方、「顆粒の出汁の素」は、原材料別に、昆布、鰹、あご出汁などが顆粒状でスティックに入ったもの。これらは、沸騰した鍋に投入した瞬間から出汁に早変わりする。さすがに単品だと旨味が単調で寂しいので、やはり数種類の出汁の素を合わせて深みを追求する。

  今日は、「お鍋で食べる昆布」なる物を買ってきた。昆布を長手方向に細かくカットし、1人前づつ束ねたものが5束入っている。出汁にうるさい人たちにとっては、きっと、「こんなの欲しかった」としみじみ思うに違いない。また、手に取ってみるだけで次々と使い方のアイデアが広がりそうだ。説明書を読むと、その製造法に再び感心する。それは、「北海道産真昆布に、鰹節、干し海老、帆立干し貝柱、椎茸から抽出した旨味のエキスをまとわせ、極細カットされたも」のとある。それによって、簡単に素早く濃厚な「出汁」が採れるようだ。最大の特徴は、極細カットにあり、お湯との接触面積が2倍以上になっていることで、「付け加えられた旨味や昆布の養分が素早く溶け出す」ところにある。さらに昆布本体から溶け出す「ぬるぬるとした粘りは、食物繊維」なので逃さず体に採り込むのがよい。

  す早く本格的な出汁が採れる、つまり、古典的な出汁の抽出方法なのに、スティック状の顆粒の出汁の素のように、迅速に出汁が採れる。これによって、味噌汁、湯豆腐、おでん等はもとより、例えば、醤油容器に、入る長さに切って浸けると数時間で醤油昆布ができる。そのまま、さらに短く裁断して、炊き込みご飯のベースになる昆布出汁として使える、うどんや麺類の出汁に追加で加えると本格的な味に仕上がるし、さらに細かく数ミリ程度にハサミ(昆布の固さからニッパーが良い)で裁断しながら漬物に掛けると旨味が生きる。まさに使い方は自由自在である。抽出時間の目安は沸騰のお湯で5分程度。出汁や養分を放出した後の昆布の姿は、4倍に大きくなり、柔らかさも増してそのまま美味しく戴くことが出きる。この「お鍋で食べる昆布」によって昆布の使い方も幅広くなるし、本格的な出汁が身近で簡単なものになりそうだ。
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%211589&app=WordPdf

 
 

 

2014/06/24

W杯応援観戦3

   グループリーグ最後の試合がまじかに迫ってきた。ここのところ、少しだけゴールは遠く、残念な結果に終わってはいるが、チームは十分頑張っているように思えてきた。様々な言い訳はあるものの、真剣勝負でギリシャ10人対というハンデ戦での引き分けは、日本の現在の実力を見極めるのに十分だったかもしれない。「やっぱりか!」ということなのだが、それは、試合を重ねるごとに納得感に繋がってきた。一番気がかりだったのは、ワールドカップ以前にイレブンは多くの試合をしていることから、「本番で疲れが残っている」ということだ。しかも、初戦は緊張もあった、気負いもあった筈だ。しかし、後半にいつものように体が動かず、スピードが出ないのは、やはり緊張や気負いだけではない。

  しかも、現地では追い打ちをかけるように、本拠地から対戦スタジアムまでの移動距離であったり、最初の現地入りでは、温度・湿度等の環境がじわじわと体を苦しめる。選手は知らず知らずのうちに体力を消耗して行ったと思われる。ピッチ環境は、じっとしていても汗が溢れる、銭湯の中での試合の様な状態だった。不甲斐ない負け方をした初戦では疲れを残したし、また次に引き分けたことによる悔しさは、ひとしおに違いない。一度でも勝てば、また新たなファイトが沸いてきただろう。日本人として一番辛いことは、やはり「環境に対する順応性」ではなかったか。もしそうなら、そろそろ時間経過と共に、その苦しめられている「現場の環境に慣れてきた」のではないかと推察している。それも勝機の1つにしたい。

  それでも、コロンビア戦を勝ち抜ける程安易ではない。ただ、コロンビア選手の条件に近づいたのは事実である。選手の技術とかチームの戦略自体は、決して負けているとは思えないし、実績もさほど恥ずかしいものではない。ただ、個人の戦術眼には、劣る部分があるかもしれない。確かにコロンビアのFIFAランクは1桁で、はるか雲の上だが、暑さに耐えて90分間で交代枠を有効に使いこなせれば、仮に点数で負けても「自分達のサッカーをしたと断言できる形が作れる」のではないだろうか。ブラジルまで行って、一度も勝てないことには、応援している我々より選手自身の方が悔しい筈だ。しかし、それでも、選手自身が「やるべきことは全て出せた」と言うなら仕方ないことだし、我々もそれを素直に受け入れるしかない。

  会見では、意気込みのある発言であったり、今度こそ!というような「根拠の不鮮明な発言が目立つ」が、何故得点できないのか、最後の詰めが甘いのは、足が短かいからなのか、背が低いからか、走りが遅いからなのか、あるいは疲労から来る集中力の欠如なのか、はたまたピッチ上の不仲による連携の不備によるものなのか、そこから見えてくる事は、いったい何なのか説明があっても良いのではないだろうか。早い話、もっとオープンにサポータへ報道すべきなのである。自分達だけが分かっているというのは、甚だ隠蔽体質が蔓延しているとしか思えない。監督も誤算があった部分については、やはり言及すべきだし、「だから次はこうする」と具体的に話してほしいものだ。それが後に続く者に大いに役に立つ話になるし、後輩たちの為にも「素早い分析と対応力」で、子供たちに恥ずかしくない姿を見せて、夢を壊さないようにして欲しいと思うのである。

 

 

2014/06/20

体組成計で体の本質を知る

  最近は、「病への認識不足」を訴えて営業の為にテレビに出る医者が増えている。何でもいいから病院へおいで、病気は見つけてあげるから、と言っているように聞こえる。病院へ行くと、検査は細かくした方が良いとか、大した病気でもないのに、続けて様子を見ましょうと次の予約を入れたり、薬は「呑まないより、呑んだ方が良い」とか、あるいは、心配なら追加の検査をした方が良いとか、何かと盛んに売上げを増やそうとする。若い人たちは、このような医者の営業活動や薬のコマーシャルを十分承知しているから、素直に「結構ですと拒否」するが、年配の人ほど、「面倒見の良い先生に出会えた。だから、断るなんて失礼だから、また行かなくっちゃ」と話す。医者の誘導にめっぽう弱く、保険点数の高い検査にも喜んで応じようとするし、薬はたくさんもらった方がお得とも考えている。そうやって古い人ほど医者から食い物にされるのである。

  そんなことだから、国民の医療費負担が増え続けるといえる。早い話、病気でもない人が保険点数を使いこんでいると言っても過言ではない。心筋梗塞、癌、脳卒中などは確かに不安だが、明らかに病気になれば医者の世話になるわけで、長い付き合いのできる医者を何人か確保しておくことは良い。しかし、病気にならないようにするのはもっと良い筈である。だから、健康診断には、それなりの価値がある。健康状態はすべて自己責任で、健康診断結果が悪ければ、何故そうなるのかを自ら探求して、修正に向かおうとするのが知的生命体の証とも言えるが、しかし、おおよそ、そんな難しいことを考えなくても、「運動不足、食べすぎ、ストレス過多、不規則な生活等」の結果が健康診断結果に反映していると考えるのが妥当である。

  やはり、その不健全性を認識できないから「ずるずると今までどおりの生活」を継続してしまうのである(自ら反省)。そこに、正常で健康的な身体作りを指導する、特定保健指導員が我々には必要なのである。まるで占い師のように、いくつかの質問に答えるだけで、会話の中から健全な身体への路を開いてくれる。もちろん、その話と「自分の過去の行動や思考構造に照らし合わせて」素直に受け入れる姿勢が必要なことは言うまでもない。それには、食材の正しい知識や、食べ方、運動の方法からケアまで、様々な情報が盛り込まれていて、自分の持ち合わせた知識や考えに「欠落している部分」があることを改めて認識させられる。したがって、その指導要領を忠実にコツコツ実践するだけでよい。さらに、そのコツコツが続かないという「魂に脆弱性」のある人は、日々体の状態を監視するようにするのが効果的だ。


  監視とは、適宜数値をグラフ化して状況を知り、今後の動機付けにする行為とも考えられる。それには、体重、体脂肪量、筋肉量、基礎代謝など、自分が重視した項目に加えて、歩数計測、腹部まわりサイズ、などがあるが、自分でグラフにするのは面倒だ。そこで、タニタが運営する「からだカルテ」というホームページを覗いてみると良い。そこには、同社が提供する周辺機器を併用し、血糖、尿糖、血圧、など、それら体組成計を中心とした周辺機器から得られるデーターを、WEB上に設定された「個人の健康ページ」へ自動で伝送し、グラフにしてくれる。それを観ながら、食べ物にも注意を払い、努力すべき項目を意識して毎日のトレーニングにも励む。今だ1か月だが、実践してみると、それは想像するよりはるかに効果的な行為であることが分かる。また、時々専門の特定保健指導員のチェックやアドバイスも入ることもあって、間違った方向へ進むこともない。自己管理のツールとして大変よく考えられている。そこで私もプログラムに参加してみることにした。途中、どのように体組成値が変わっていくか報告したいと思う。今日はとりあえず最初の1ヵ月間の変化を紹介したい。
https://onedrive.live.com/view.aspx?cid=CFBF77DB9040165A&resid=CFBF77DB9040165A%211635&app=WordPdf

補足:特に健康に関する漠然とした知識だけでは何も変わらない。データーのない努力は、自己満足だけで終わる。そのためには正しい知識と実践である。その食事やトレーニングを分かりやすくまとめてあるのが、タニタが発行するKARADA BOOK(本体価格1,500円)で、これには、健康維持のための日常的な知識に加えたい情報があふれている。

2014/06/17

島根 うにめかぶ

  以前から何度か宣言染みた、自らの食に侘(わび)とか寂(さび)の思想を取り入れ、何気ない食事をより充実した時間として楽しもうとする話の続きになる。それは、まさに年齢を重ねた者として自分に適した食材を自ら求めて、試行錯誤を繰り返しながら、より少量で効果を挙げることを実践する思想でもある。しかし、単に質素な食事をすればよいとか、高級なものを少しづつ食べればよいというものでもない。それは、国内にあるさまざまな食材の中から、珍しいものを探しだし、自ら本来の嗜好を再発見しようとするもので、それが体によいとか、元気になるという薄っぺらな側面に留まらず、体に取り込む価値を求め、自らの拘りとそれに付随した満足感を得ようとするものである。と、言いながら、いまだ、よくわからんが。

  今まで視界に入らなかったものを、捉えるのは口で言うほど容易ではない、また、頭から嫌いだと決め付けていた食材の中からも対象となるものを抽出するなど、まさに自己改革を迫るものだが、一方で、人として恒久的に追求したい願望の1つでもあり、それに時間を費やすことは価値がある。元々、人は親から与えられてきた食が一番美味しいと自然に感じるようになるものだ。それに馴染んでしまうと、好みの方向性もある範囲に収まってしまう。しかし、何かにつけて、「自分の食に責任を持つべき年齢」になれば、それなりにそこから派生した嗜好の形を演出したくなるのは自然のことだと思えるのである。

  今日は前回の「わさびめかぶ」の兄弟分ともいえる「うにめかぶ」である。これは、瓶を横から眺めると、下部に朱色の雲丹(うに)の層と上部に緑色の芽株(めかぶ)の層が、2つに分かれて詰まっている。もちろん、他にも派生品は色々取り揃えられているが、芽株(めかぶ)と雲丹(うに)という海の幸どうしは相性が自然であり、芽株(めかぶ)の素朴な美味しさと雲丹(うに)の濃厚な香りを程よく混ぜ合わせて戴くところに、目に楽しく、口にして美味しい逸品となっている。このシリーズでは最も人気が高いそうだ。[注)→海栗(うに)は海に生息しているウニを指し、こちらの雲丹(うに)は、塩漬けになったウニを指す]。芽株(めかぶ)と組み合わせる山葵(わさび)にしても、雲丹(うに)にしても、よく考えられた組み合わせで、芽株(めかぶ)を一際魅力のあるものにしている。やはり、温かいご飯との相性は抜群に良い。ただ、雲丹と海栗との味には加工、味加工の違いがあり過大な期待は禁物である。

  その理屈に覆われた効能については、今回も強調しておきたい。その芽株(めかぶ)には、ビタミンB1、B2、 カルシウム、ヨード、鉄分、ミネラル、さらに、ねばねばなどにはアルギン酸、フコイダン等の食物繊維が豊富に含まれている。そのねばねばに含まれるフコイダンは、医学的な研究が進められている素材で、研究によると、癌細胞に選択的に働いて自滅させる特殊な作用があるとされ、抗がん剤の一種として食事療法に幅広く利用されている。その他にも、さまざまな研究が進められており、今後も臨床応用で注目される食材のようだ。この「うにめかぶ」自体が、そのような食事治療的に適用できるかどうかは分からないが、芽株(めかぶ)が研究されているという事実から、単なる佃煮として片付けられない魅力が潜んでいる可能性がある。
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2014/06/16

W杯応援観戦2 

    日本は初戦で負けてしまい、落胆して「観戦後は寝込んでしまった」という人も少なくないだろう。イングランドもスペインも初戦を落としている。まだ大丈夫だと、低レベルの比較をするつもりはないが、いずれにしても、まだ2試合残っているのだから、自信を取り戻して頑張ってほしい。しかし、振り返ってみても惜しいのは、同じパターンでしかも「2分間で2点」取られてしまったことに尽きる。こういう形で逆転されるケースは極めて珍しい。その他の時間帯では、いつもより、幾つかの悪い条件が重なったにもかかわらず、頑張りが効いて、逆に1点差に抑えられたところに「望みを先へ繋げた」ともとれる。元々FIFAランキングだけで比較すれば、日本46位、コートジボワール23位、ギリシャ12位、コロンビア8位なので、いずれも、まともに「戦って勝ち」に持ち込むのは難しいし、次々と試合を重ねるごとに難しくなると考えるのが一般的だ。

  しかし、環境(=天候、気温、気圧、試合時間)、選手の体調、経験などによっては、ランキングが崩される可能性は十分ありうる。そういう専門家も少なくない。つまり、日本は自国の優れた環境で試合をするなら、今なら引っ繰り返せる可能性も十分あると例えられる。それを今回の試合に当てはめると、天候は雨、時々曇りとなり、暑く湿度も高い。そこでは、ボールを細かく動かして攻撃に展開するサッカーは、ボールが芝の上を走りにくいので、ボールを奪われやすいし、それによって体力を大きく消耗する。スペインが苦労したのもそのためだ。一方、技術よりも身体能力で圧倒的に強みのあるコートジボワールは、それでも初戦と言うことに加えて、日本の守備の固さに、攻撃の術を欠いていた。しかし、攻撃の手を緩めることはなかった。

  日本のチームをみると、我々の知る攻撃メンバーに欠けていたものがある。初戦を「経験や実績」よりも「体力、あるいは守備」に重点が置かれたとみるべきなのだろう。でも、そこまでチームは器用ではない。これが「自分達のサッカーが出来なかった」と言われる由縁である。攻撃の起点、つまり、今までFWへボールを配給してきたのは遠藤である。そういう彼の経験が最初から無視されたと言っても過言ではない。「日本のサッカーはチームで戦い、良く統率されている」と言われる。それは、裏を返せばサッカーを自ら創造するのが苦手ということでもある。だから、練習は舞台稽古と同じで、殆どが「監督の演出」なのである。しかし、監督が演出できるパターンには限度がある。そこにチームの中に経験豊富な司令塔が必要で、試合中はチャンスメーカーとして進行を任される。ただ、FWの足が止まってから司令塔を投入しても遅いし、FWを入れ替えても、2列目と連携がなくバランスを崩すだけだった。いつも感じるが、やはり香川が臆病になっていたように見受けられる。既に後半は、チームとして体力を失い、チームとしての形を崩し始めていたといえる。

  一方でベンチを温めていた経験豊富なドログバは、冷静にゲームを見守って分析していた。投入されてすぐにそれに手をつける。ぽっかりと空いた右サイドからの攻撃である。その結果が同じパターンでしかも「2分間で2点」の場面を生む。弱点は、普通、失点に繋がる攻撃を繰り返されても、すぐには修正できない。さらに、2分は短すぎた。普通、サラリーマンでも同じミスは許されないから、中年の観戦者には「なんだそれは、VTRか!」とがっくりきた人も多かったことだろう。それでも、攻撃中心のチームと自負するなら、次に繋げるために、サポータを含めて「そのメンバーで負けたなら、それは納得できる」と思わせるようなメンバーで戦ってもらいたい。今回は、明らかに監督の采配ミスであり、次も同じ結果になるようだと、監督として責任を問われる。

2014/06/14

W杯応援観戦1 

  クロアチアとブラジル戦での出来事。クロアチアのゴール前ペナルティーエリア内で笛が鳴った。ええっ、と思ったら、クロアチア6番ロブレンのブラジル9番フレッジに対するファール(ロブレンがフレッジの腕を一瞬抑え込んでいる)でPKとなった。

  スロービデオでその場面を繰り返し再生された。フレッジの前にボールがあるのに、ロブレンに一瞬の抑え込まれて(体勢を崩されたというより)、足が出なかったと見れる。「おー、確かに、そりゃーロブレンいかんでしょ」と思う一場面であった。 フレッジはボールに寄ろうとして、明らかに体の重心が前に傾斜しているのに、ロブレンが背後から腕を「右腕一瞬、左肩一瞬掴んで、2度タイミングを外されている」からだ。決定的なのは、背後から肩を掴んでいることだ。それによって、これは、相手のプレーを阻止する「手を使った行為」として、現在では、明らかに反則になる。

  開幕戦という危うい状況で、さすが見逃さない西村主審と思っていたら、クロアチア監督コバチが試合後、西村主審に対し、「あれがPKならサッカーをする必要ない」と批判をしている。「ビデオを細かく観察せずに」物申すのは、いかがなものか。ゴール前にもカメラがあり、2方向から誰が見ても「クロアチアのロブレンが明らかにファール」をしているように見える。行為の目的は、ゴールの妨害と味方のクリアー促すためである。もしそれがファールではないと言うなら、「背後から手を回さないプレーに徹するべきである」。また、監督としてディフェンダにそういう指導もせず、「他人に責任を押し付け」他国の審判の名誉を傷つける発言を世界に発信すべきではない。ビデオ映像の本質をじっくり観てから判断すべきだ。

  FIFAのドイツ元主審マルクス・メルク氏も初歩的な誤審とまで言い放っている。FIFAの審判委員長は西村主審を擁護しながらも、審判には間違いもあるとコメントしている。それは、いずれも「フレッジが倒れた事自体で西村主審がファールを取ったと思い込んでいる」からだ。その前の行為を見逃さなかった西村主審の方が「鋭い判定」と言える。もちろん、そんなユーロの試合等で「良くあるファールの偽装パターン」に引っ掛かる筈もない。にもかかわらず、恐らく映像もしっかり見ずにそう言っているに違いない。フレッジは意味なく倒れているわけではない。確かに、そのファール行為を訴えるために自ら倒れている。それが、背後から「右腕と左肩の2度もタイミングを外された」ことによるものだからだ。

  一方、本田圭佑君はツイターで、この件に関して真面目な面持ちで「いや、誤審ちゃうやろ、ていうかね、なんで誤審や言われなあかんねん。あの場面で西村主審がPK取らなんだったら、試合後確実に彼は殺されてますよ。だって、良く考えてみてくださいよ、ここはブラジルですよ、どうみても護身でしょう。」  ・・・・ うーむ、なるほど。そういうことか。だから、2022年のワールドカップの開催がカタールに決まった背景にある、買収疑惑で辞任したジャック・ワーナー氏へ、約1億2200万円の賄賂が渡ったと報じられている件でも、FIFAには誤魔化さなければいけない理由が色々あって、批判をかわすために、「誤審だとか、間違いもあるとか」、いい加減なことを言っているのであろう。そして、自らの組織運営を浄化する気持ちよりも、「他人に責任を押し付ける体質」が横行しているに違いない。それが、かつて一流と言われた、サッカー選手であった人達のなれの果てのスポーツマンシップなのであろう。
 

2014/06/13

大統領の執事の涙 / マンデラ自由への長い道

 このブログにも、何処から「どのタイトル」を参照されているか、すぐ分かる仕掛けがある。食材に関するものは、年間を通して人気が高い。海外に駐在している日本の方なのか、ここ2年ぐらいは海外からの参照が35%を超えてきた。オーディオとか写真関係は、ほぼ毎日と言ってよいほど満遍なく参照されている。また、流行り物は反応が早いし、地道なものは、コンスタントに参照回数を伸ばしてくる。また、年間を通してみると季節変動要因と言うのもある。それによって、いつごろ何が探されているか知らず知らずに理解が進む。例えば、梅雨時期には「腰痛治療」の参照が急増するし、連休前には「映画の感想ページ」が増える。そのような傾向が突き付けられると、「やっぱ、俺も映画を観に行こう」と触発されるのである。

 そんなことから、最近、映画を見る機会が増えた。かつては、シートの幅が狭く、空気が悪いとか、柱が邪魔で、よく見える席の範囲が狭いとか、隣にポップコーンとコーラを持って座られるのが嫌だとか、雑談を止めてほしいとか、後ろの人が髪とシートを一緒に掴んで移動するとか、背後からシートを蹴られるとか、そんな劇場の古い印象がめっきり減ってきたせいか、安心して映画の鑑賞ができるようになった。最近では、少々長編の MANDELA:LONG WALK TO FREEDOM(146分)をプレミア席で鑑賞することができた。そのシートの快適さは勿論、周囲の距離感を含めて、とても満足できるものだった。これなら週1回でも出かけたいくらいだが、残念ながらこのプレミア席は3,000円になる。私には、やはり少々高すぎる。

  もちろん内容にはとても興奮するものであった。当初、「肌の色による差別」を扱う映画は、自分には遠い話と考えていた。しかし、「大統領の執事の涙」を観て以降は、観方に変化が表れたように感じる。もちろん、年齢の影響もあるかもしれない。さて、最初は暗闇に黒い物が絡み合うなど、少々退屈だったが、徐々に話に引き込まれていき、自然に闘争心が沸きあがっていく。自らもスクリーンに入り込んで、白人と戦っていることに気付く。人は環境に影響されるのか、それとも老いることでファイターで無くなるのか。マンデラは、静寂の監中で「失意の底で、したたかな悟りを開く」のである。一方牢獄の外では、政府から毎日のように拷問を受け、政府に対する憎しみが確固たる信念に変貌してゆくウイニー、仲間を率いて政府と戦うにまで成長した彼女には、他に選択肢は無かったし十分共感できるものだ。そして、時が過ぎ、27年という長い獄中生活を終えようとしていた。しかし、自由と引き換えにマンデラに科せられたことは、理不尽極まりないことだった。それでも、最大の理解者であったウイニーを時間を掛けて諭すことのできないマンデラに、少々がっかりさせられる。そして彼の導く結論は、それ自体が苦しいほど切ない。そこは、つまらん男として描かれている。 

  ま、60歳過ぎのおっさんの感想はどうでもよいが、話を映画館に戻すと、先鋭度の高い映像は素晴らしい。ゆったり広いシートも、さらにリクライニングで快適の極みといえよう。しかし、それにしても、耳が破壊されるのではないかと思うほどの大音量と、「それにつきまとう歪音」には閉口する。ハッとする様なリアリティーはない。ドルビーという過去の名声を借りた、余りにも押しつけがましい音づくりは、既にハイファイから遠ざかってしまっている。デジタル調と言ってしまえばそれまでだが、もしそうならば、芸術を台無しにしていると言われても仕方ない。かつて、映画館の音はもっと厚みがあって、溢れて風のような重低音が心地よかったし、中低音に重点が置かれる「疲れない音作り」にも特徴があったが、もうそんな豊かな音は出せなくなったのか。

補足1:元々ドルビーは、1968年頃TYPE Aという名でレコード業界に業務用として登場した。1972年頃には市販のカセットデッキにTYPE Bが搭載される。ほぼ同時期に映画用としても使われ始めた。当時は、ピアノなどパルシブな音(急激な音の変化)にめっぽう弱かった。当初から印象は全く良くない。

参考1:「大統領の執事の涙」 
http://butler-tears.asmik-ace.co.jp/

参考2:「マンデラ自由への長い道」
http://disney-studio.jp/movies/mandela/
いずれもノンフィクション。
 

 

 

2014/06/10

超音波洗浄器

 ふと、目をやると、メガネ屋の前に置かれたテーブルに、7~8人のおっさんが屯していた。何がそこにあるのだろうと近づいて覗き込む。おっと、超音波洗浄器を使って、メガネを洗浄し、その美しさに興奮している。メガネのレンズだけなら、クロスだけで綺麗になるが、フレームやヒンジに溜っている長年の汗や脂、あるいはこびり付いた埃などは、クロスで拭くだけでは綺麗にならない。ただ、そういったメガネ屋の前に超音波洗浄器を置いて、客の誘いこみに使う演出は、なかなか巧妙で感心する。普通なら、メガネを買ったお店に行けば、超音波洗浄器で綺麗にしてもらえる。これは、お店の人に洗浄をお任せするから綺麗になるのであって、平素メガネを掛けないと良く見えない人が、果たして綺麗になったかどうか、見極めることは難しいのではないか。

 人の聞こえる音の周波数範囲は20Hz~20kHzとされている。超音波とは、それ以上の周波数領域のことで、おおよそ20kHz以上を指す。しかし、犬、猫、ねずみ、こうもり等は、順にさらに高い周波数が聞こえている。また、ポップスやクラシックのCD等に含まれる音楽成分は28Hz~12kHzの広い範囲で周波数が分布しているが、実際に音楽として重要な部分は40Hz~8kHz程度とされている。一方、超音波を使った医療関係の機材は既に広く普及しており、最も身近なのは、歯医者で歯垢を除去する器具だと思われる。これは水の供給下で超音波の細かい気泡波で汚れや歯垢を洗い流し、歯の隅々まで綺麗にする。また、幾つかの小さな振動子と受振子を並べたプローブを使う産婦人科等で使われる腹部用超音波装置も広く知られている。また、数倍も高速で動作する心臓用もある。その他、尿路や胆のうなどに出来る結石を超音波の衝撃波で破壊する装置等にも応用されている。

 このように、超音波を効率的に使うには、特殊な分野を除き必ず水分が必要になる。また、効率の良い洗浄には、その汚れを分解するための溶剤も、必要不可欠な材料といえる。つまり、どのような周波数を使い、どのくらいのエネルギー(パワーと時間)を必要とするかによって、洗浄に適した対象物が決まる。これを間違えると、いとも簡単に対象物は破壊されてしまうし、逆に水がないと超音波振動子も負荷がかからず破壊されてしまう。したがって、目的や用途によって必要とされる装置の種類は異なる。おおよそ、一般家庭の中にある、歯ブラシ、シェーバーの先端部分等の洗浄には小型の物でよいが、案外メガネの洗浄には、洗浄むらが出ないように、2つの超音波振動子を搭載するなど工夫が求められる。

  個人でも超音波洗浄器を使われる大金持ちの方は多い。用途は、もちろん宝石、貴金属。私の場合は、インクジェットプリンターのヘッドの洗浄に買い求めた。水と洗浄液に浸かったプリンターヘッドには、超音波の振動で水中で発生した細かい気泡(キャビテーション)が弾ける瞬間に発生する衝撃波が当たり、微細な隙間に挟まった汚れを粉砕して取り除き、一瞬で綺麗になる。ただし、表面的な隙間には有効でも、複雑に組み立てられている内部にまでは、衝撃波は届かないので、こびり付いた汚れや時間の経過したものを洗浄するには、インクの代わりにしばらくの間グリセリンを使うなど別の前作業も必要になる。
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2014/06/06

ブランデーどら焼き

  最近、甘党の肩身は狭い。特に我々の年齢になると、少しだけ美味しい物を食べるくらいしか楽しみはない。にもかかわらず、周囲からは糖尿病予備軍という、まるで戦士のような汚名を着せられて、周囲360度から脅されている。そこまで追い詰められると、既に反撃をする元気もなくなり、じわじわと納得せざる終えなくなる。しかし、そこで周囲の声に屈してはならない。まるでステルス戦闘機のように、誰にも見えないように対処することが期待される。それは、僅かな空気の動きも見落とさず、甘い物をパクッと素早く口にし、知らん顔をして、顔を動かさずに砕いて胃へ送り込む。間違っても「美味しかったとか、旨かった」などと、尻尾を出してはならない。

  落語の小話ではないが、いつもは、聞かれたら「甘い物は嫌い」だとか、「甘い物は体が受け付けなくなった」とか、周囲を煙に巻くのは常套手段である。思い出したように、「あそこの鯛焼きは、特別美味しかった」などと話しかけられても、引っ掛からず「鯛の塩焼き?」とか言って呆けて見せる必要もある。しかし、何時か、何処かで体からボロが染み出る可能性はある。それを抑えるためには、平素から隠れて「筋肉を動かすハードな運動」をしておく必要もあるし、野菜に含まれる「食物繊維」の大量摂取の必要もある。時には、プアール茶や黒烏龍茶も必要だ。何かにつけて、ボロが数値で出ないような工夫が必要になる。

  美味しい物を、美味しく戴くには、大して「魅力のない甘味」を口にすることは、日頃から避けるように心がけておきたい。特に、平素から血糖値が高目の人は、和菓子など上品な甘さに対して、少々では「感動する」とは思えないが、そのような人に限って、甘い物は好物であったりするわけで、僅かな美味しさの「違いそのもの」には敏感かもしれない。しかし、いずれにしても、食に対する原則は空腹にあり、常に空腹に自分を置き、その状態に慣れておくようにするのが良い。この状態は、血糖値が下がっている。そして、甘味を戴く前には、急激に血糖値を上げることのないよう、先に抹茶などを飲むようにしたい。さらに、食事の味付けには塩味、甘味、酸味、苦味、辛味などがバランス良い状態を保つようにしたい。そうすることで満腹センサーが正しく動作する。

  そんな苦労をしてでも食べる価値があるのが、この「ブランデーどら焼き」なのである。口にしたら、きっと「旨い、もう、たまんないす~」と漏らすかもしれない。いや、ひょっとすると食事をたっぷり済ませた後でも、あるいは血糖値が高い状態でも、ぜひ別腹に入れたいと願うに違いない。そんな美味しさが滲み出ているのである。元々、どら焼き自体を好きな人は多いはずだが、その餡子にブランデーを加えることで、得も言われぬ餡子の甘さが、それを囲む生地に浸潤して(ここが重要)、甘さと香りに格別な美味しさを加えているのである。素朴などら焼きでも、滲み出る餡子とブランデーの香りで、かつてない「美味しさ」に仕上げた逸品と言えよう。
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2014/06/03

牛炊き込みご飯

  これまで、「浅草今半」のすき焼き用の牛肉とか、牛肉弁当(浅草今半4種)など、弁当で際立つ肉の美味しさを伝えてきたが、今日は、「人形町今半」のレトルト食材を紹介したい。レトルトパックというとカレーやスープなどを連想するが、最近は、幅広く様々な食品に応用されている。特に「炊き込みご飯用のレトルトパック」は、予想以上に「よく出来ていて美味しい」という印象が定着しつつあり、既にたくさん紹介済みである。最近は慣れたもので具沢山仕様で炊き上げたり出来るようになった。同じ商品を幾度か使い込むことで、製品の具の中身やスパイスの按配を把握でき、好きなものを追加しながら、自分の好みに仕上げられるようになるし、その工夫自体が楽しいこともある。しかし、忠実に説明書どおりに作るほうが結果的に良い場合もある。今日は、そちらの商品になる。

   この「牛炊き込みご飯」の作り方は、凄く簡単で、箱の裏にも書いてあるが、まず、2合のお米を洗って水を切る。そのお米を炊飯器に入れ、お水を加えた後、レトルトパックから取り出した具を入れる。後は炊飯器のスイッチを入れて炊き上げるだけである。しかし、この作業を順追って見直すと、配慮すべきポイントがある。1つ目は、「お米を洗った後に、炊飯器に入れて、天然水をお米スレスレまで入れて1時間ほど放置する」このプロセスが必要だ。それはまず、ある程度、お米に水を吸わせるのである。2つ目は、「レトルトパックをお湯に着け、油脂分を溶かしてから炊飯器のお米の上に載せる」ところにある。ポイントは、この2つである。最後に、調整するように2合の目印の位置まで天然水を追加する。後は、炊飯器のスイッチを入れる。しばらくすると、すき焼き割り下や質の良い牛肉、あるいはごぼう等、それらが入り混じった香ばしい薫りが台所に充満し、今半のお店に「およばれしたような気分」になる。

  人形町今半は、今半本店の暖簾分けである。ブランドがブランドを育てた良い例でもあり、それから、既に60年ぐらい経過し、牛肉以外の商品の取り扱いにも独自の展開を図ってきた。もちろん「牛鍋とかすき焼き」の代名詞になるほど有名だが、やはり、基本的にはお店まで出かけて、お座敷で鍋や器を眺めながら大正時代に思いを馳せるのが楽しい。お昼なら5,000~7,000円、夜なら12,000~15,000円で牛肉を楽しめる。バブル時期には、上記の価格はさほど高いものでもなかったためか、大変繁盛していた記憶がある。一方、こちらの「牛炊き込みご飯」は、おなかいっぱい(2人前)食べても、540円と超割安である。これだけで物足りないと思えば、今半の出店舗で「山形の黒毛和牛の薄切りお肉」を調達し、出汁醤油と黒糖を使ってフライパンで炙って乗せるとよい。うーむ、それなら特別美味しい豪華なご飯になる。

  さて、そろそろ炊き上がった「牛炊き込みご飯」を、よくかき混ぜて戴くことにする。この牛炊き込みご飯に使われている醤油は、人形町今半独自の薫りやこくを放っているので、お新香とか漬け物を併せる時は、醤油系を控えて、酢で漬けたものを用意したい。それが、時々合い間に漬け物を口にすることで、口直しになる。そこで、牛炊き込みご飯に使われている微妙な味がさらに際立つのである。PDF写真では、大根の酢漬け(商品名:国産野菜さくら漬け)を手前に使用した。これを箸休めに使うことで、「牛炊き込みご飯」の味わい深い楽しみ方が発見出来る。是非、この組み合わせを試してもらいたい。
ではこちら
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